越国分割

北羅夫の北方活動は、朝鮮半島情勢の急迫によって中断した。北羅夫の水軍力が朝鮮半島に振り向けられることになったからである。そして、蝦夷に関する記録が再び日本書紀に登場するのは、10年後の天智七年のことである。この年の7月、ヤマト政権は来訪した蝦夷を饗応している。同じ月に越国が燃土と燃水を献上していることから、このときの蝦夷は越国の使者が同道したものであろう。その後、越の蝦夷、伊高岐奈らの申請によって服属した蝦夷七十戸による評が設定された。この評の位置は岩船地方か現在の山形であったと思われている。ヤマト政権は七世紀の末に越国を越前国、越中国、越後国に分割した。このときの越前国はおおよそ現在の福井県の北半部と石川県、越中国は現在の富山県と阿賀野川以南の新潟県そして越後国は阿賀野川以北であった。ヤマト政権が越国を分割したのは、越国が行政単位としては広すぎたこと、服属した蝦夷の評が設定されるなど阿賀野川以北に一国を設定しうる条件が整い始めていたことが上げられる。

貴腐ワイン

貴腐ワインは、白ワイン用のブドウに菌が果皮に感染することによって非常に糖度が高まり、芳香を持つようになった最高級甘口ワインです。貴腐とは、腐敗したように見える干しブドウのようになった外見からは想像できないような芳香と風味を持ったワインが醸造されることからつけられた名前で、貴腐化したブドウを使って造られた甘口の最高級ワインを貴腐ワインと言います。